人気連載「History’s Mysteries(歴史の謎)」へ再びようこそ。
ここでの目的は、現代のゴルフ界を形作るのに貢献した人物、企業、製品、出来事を検証することにある。
今回スポットを当てるのは、法廷で繰り広げられた50年前のある裁判。
実はこの裁判こそが、いま私たちが当たり前に見ているゴルフ小売市場を作り上げたと言っても過言ではない。ゴルフの世界を大きく変えた、その決定的瞬間に迫る。タイムマシンに飛び乗って、時をさかのぼろう。
行き先は1975年、ニューオーリンズの連邦地方裁判所。そこで行われた「ゴルフシティ社(Golf City, Inc.)対ウィルソン・スポーティング・グッズ(Wilson Sporting Goods」ほか」の裁判は、ゴルフ小売の常識を根底からひっくり返した。
今回の「歴史の謎」は、法廷ドラマの金字塔とされる『ペリー・メイスン(HERO?)』や『L.A.ロー(リーガルハイ?)』ですらかすんでしまうほどのインパクトを持つ。
それらはむしろ子ども向けアニメのに見えてしまうかもしれない。「歴史の謎」:「ゴルフシティ社対ウィルソン裁判」の真実
いまのゴルフ小売市場は、あまりにわかりやすい。
ゴルフギャラクシー(Golf Galaxy)やPGAツアースーパーストア(PGA TOUR Superstore)へ行けば、メーカーが作ったクラブや用品は何でも揃う。まるで歌詞のとおり、「お金さえあれば、なんでもござれ」という世界だ。だが、若いゴルファーには知ってほしい。かつてのゴルフ市場は、そんな単純なものじゃなかった。
1900年代の初め、ゴルフクラブはその道のプロが手作業で造る時代だった。時間もかかるし、何より根気のいる作業だった。
しかし1920年代に入ると、「スポルディング(Spalding)」、「マグレガー(MacGregor)」、「ウィルソン(Wilson)」といったクラブメーカーが登場し、高品質クラブの大量生産を実現。ゴルフクラブの世界は一気に近代化していった。
ただし、この変化はクラブプロ(彼らは現在でもゴルフクラブのトップ販売員である)にとって死活問題だった。
自分たちの仕事を守るために、メーカーは「プロライン」と呼ばれる専用モデルを用意し、プロショップだけが扱える「プロ専売」の仕組みを整えた。一方で、量販向けの「ストアライン」はスポーツ用品店やデパートで販売されるという二本立ての構造が築かれた。このビジネスモデルは1960年代まで安定して機能し、メーカーにも小売にもクラブプロにも利益をもたらした。
しかし永遠には続かなかった。不況の波や「横流し」の横行、さらに“絶対にノーを受け入れない”強気な小売業者の登場が、このシステムをついに崩壊へと導いたのだ。
その人物の名はジェームズ “バディ” オレンジ(James “Buddy” Orange)。フォルクスワーゲンの元幹部からゴルフ業界に乗り込んだ異色の起業家だ。
彼がニューオーリンズで経営していた店「Golf City(ゴルフシティ)」は、どうしても「プロライン」を扱いたいと望んでいた。だが大手ゴルフブランドメーカーの返答は「ノー」。そこでバディは、法廷という舞台を選び、弁護士とともに戦いを挑んだのだ。“スウィングジャズの60年代” ― ゴルフは浮かれていなかった
1960年代の幕を開けとともに、ジャズ同様にゴルフも熱狂の渦につつまれた。アーノルド・パーマーが“キング”として君臨、ジャック・ニクラウスがその王座を狙い、ゲーリー・プレーヤーが両者を牽制する。まさにスーパースター群雄割拠の時代だ。
全米ではゴルフ場建設がピークを迎え、1964年に約300コース、翌年にはさらに346コースがオープン。
クラブや用品の売上も1965年に1億4,000万ドル(現在の価値で約14億ドル)を超え、前年比9.3%増という勢いを見せていた。
メーカーが浮かれ気分になったのも当然だろう。
すべての指標が「この波はまだ続く」と告げていたから、生産は次々に拡大されていった。 だが1966年、S&P500が22%も下落すると、世の中は一気に逆風へ。信用収縮が起き、インフレが進行。1969年までに消費者物価指数は23%以上も跳ね上がった。さらに追い討ちをかけたのが若年層の減少だ。新しいゴルファーは増えず、時代の象徴だったヒッピーたちは「バーディーを狙うより愛を語ろう」とクラブを手にすることなく去っていった。
供給過多、信用不安、物価上昇、そして新しいゴルファーの減少…。
そのすべてが重なり、PGAプロは苦境に追い込まれた。プロショップの棚にはプロライン製品があふれていたが、肝心の客がいなかったのだ。
追い詰められたプロたちは、やがて「横流し」という裏の手段に走る。余ったクラブをこっそりと専門小売に流し、長年プロラインを欲してきた小売業者に供給したのである。
そのなかにいたのが、メンフィスの小売業者バート・ダーギー(Burt Dargie)。横流したちと手を組んだ彼は、店をプロ専売モデルで埋め尽くし、破格の値段で売りさばいた。
この大胆な動きは、彼の親友でもあるバディ・オレンジ(Buddy Orange)の関心を強く引くことになる。
ゴルフ小売を揺るがしたバディ・オレンジと「ゴルフシティ」、シャーマン反トラスト法
1969年、バディ・オレンジはゴルフへの情熱を形にし、ニューオーリンズで「ゴルフシティ」を開業した。
最初の仕入れ先は親友のバート・ダーギー。法廷での証言によれば、店舗づくりはバートのメンフィスの店をモデルに、大型ディスプレイやクラブフィッティング、修理工房まで整えたという。彼が本当に欲しかったのは、主要大手ゴルフブランドメーカーのプロラインだった。
しかし返ってきたのは「ノー」の一言。扱えるのはストアラインのみで、プロラインは“プロ専売”の壁に阻まれていた。行き場を失ったバディはついに決断し、同年12月、ゴルフ業界の大手メーカーを相手取り「反トラスト法訴訟」を起こしたのである。被告席には名だたるゴルフメーカーが並んだ。
ウィルソン(Wilson)、スポルディング(Spalding)、アクシネット(Acushnet)、ダンロップ(Dunlop)、マグレガー(MacGregor)、ラム(Ram)、パワービルト(PowerBilt)、ベン・ホーガン(Ben Hogan)、ノースウェスタン(Northwestern)、ロイヤルゴルフ(Royal Golf)…そして念には念を入れるように、PGAオブアメリカ(PGA of America)までが共謀者として名指しされた。
バディ・オレンジの主張は明快だった。
「これは共謀だ」。ゴルフシティの弁護団は、メーカーたちがプロラインを正規の小売業者に渡さないように仕組んでいたと告発したのだ。この陰謀は「共謀者の一部メンバーの直接競合相手を市場から排除することを目的としていた」と訴えた。それは取引の自由を奪い、「シャーマン反トラスト法第1条」に直接違反していると主張した。ゴルフシティの主張の核心は、業界全体が「ブートレグ(不正流通問題)問題」にどう動いたかにあった。
証拠開示手続きにおいて、ゴルフシティはPGAから、プロラインの不正流通を会員が繰り返すのを阻止するための取り組みをまとめた文書を入手した。そしてそこには、PGAがメーカーと歩調を合わせ、これを潰そうとしていたことがはっきり記されていた。「ゴルフシティ」の勝利 ― プロ専売の壁を揺るがす裁判
この裁判は丸5年もの歳月を費やした。審理の中で、ウィルソンは「プロ専売」の方針が1930年以来の伝統であり、プロライン製品は「ゴルフ場やドライビングレンジに併設されたプロショップでしか売られていなかった」と証言した。
さらに、大手ゴルフブランドメーカーの広告戦略も明らかになった。プロラインはゴルフ雑誌で大きく宣伝され、その広告には必ず「販売はゴルフプロを通じてのみ」と記されていたのだ。
対照的に、ストアライン製品へのメーカーによる直接的な広告はごくわずかで、存在感の差は歴然としていた。

さらに審理の中で、原告側はこう語った。
バディ・オレンジがゴルフシティの構想をメーカーに持ちかけたとき、最初は歓迎された。だがその熱はすぐに冷めてしまった。一方、被告の筆頭だったウィルソン(Wilson)は反論する。プロ専売の方針は各メーカーが独自に定めたものであり、しかもそれは価格競争以外の有効な戦略だったと。
なぜならゴルファーは“プロショップでしか手に入らない名声あるギア”を選びたがるからだ、と主張したのだ。審理が進むにつれて、事態は思わぬ方向へ動き出した。ウィルソン(Wilson)を除くすべてのメーカーが次々とゴルフシティと和解。
現金12万7,000ドル(現在価値で約100万ドル)を支払い、さらにプロライン製品を供給することを約束して訴訟から離脱していったのだ。そして1975年2月、訴訟に残っていたのはウィルソンとPGAオブアメリカ(PGA of America)のみ。
ここで連邦地裁判事ジェームズ・コミスキー(James Comiskey)は、ゴルフシティに有利な判決を下し、「確かに共謀が存在した」と認めた。続く5月、コミスキー判事はゴルフシティに対し、損害賠償の3倍にあたる金額と利息、さらに弁護士費用を上乗せした勝利判決を言い渡した。

(『ゴルフダム・マガジン(Golfdom Magazine)』1975年)
“再検証の末に見えたもの”
コミスキー判事の判決に、バディ・オレンジは満面の笑みを浮かべた。
「5年間もこの裁判に付き合ってきたんだ。勝てて本当にうれしい。これで市場はようやくフェアになった。
今回の行動はプロを敵に回すためじゃなかった。クラブフィッティングに関しては、俺たちもプロと同じ資格があると思っているんだ」とゴルフダム・マガジンに語っている。さらにゴルフシティの弁護団、ヘンリー・クライン(Henry Klein)はこう強調した。
「メーカー側は“各社が独立して戦略を決めただけで、連絡も協議もなかった”と主張しました。しかし私たちはPGAとメーカーの間で交わされた書簡を提示し、それが共謀の動かぬ証拠であることを立証したのです。」
(ゴルフシティの弁護士ヘンリー・クライン、『ゴルフダム・マガジン(Golfdom magazine)』1975年)
だが、その証拠は最終的に法廷で揺らぐことになる。
ウィルソン(Wilson)とPGAオブアメリカ(PGA of America)は控訴し、1977年7月、第5巡回区控訴裁判所が下した判断は厳しかった。
「下級審は被告の重要な証拠を十分に検討せず、PGAとウィルソンに取引制限の責任があると結論づけた根拠も不明確だ」と指摘したのだ。控訴裁は訴訟を地裁へ差し戻し、同時にPGAオブアメリカを被告から除外。
ルイジアナ州での事業規模が小さいため、責任を問えないと判断した。また、PGAとメーカーが横流し防止に協力していた記録はあったが、それがゴルフシティを排除する“共謀の証拠”にはならないと結論づけた。
控訴裁はさらに踏み込んだ。
「プロ専売の方針は、各社が独自に決定した限り、取引制限にはならない」と判断したのだ。判決文にはこう明記されている。「法律は独立した事業判断を禁じない。独立して、かつ違法でない限り、誰もが他者と取引しない自由を有している。」「訴訟のタンゴ」が残した余波
それでも世間的には、ゴルフシティが業界に勝利し、小売業者がプロラインを扱える道を切り開いたと受け止められた。
実際、この判決を契機に全米各地で同様の訴訟が相次ぎ、バッファロー、カンザスシティ、そしてウィルソン(Wilson)の本拠地シカゴで火の手が上がった。いずれにもヘンリー・クラインが弁護団として参加している。結果は分かれた。
バッファローとカンザスシティの裁判は証拠不足で退けられたが、シカゴの訴訟は法廷まで進んだ。6人の陪審団はメーカー側の主張を支持し、「プロ専売ポリシーは独占禁止法違反ではない」と結論づけたのだ。 ただし裏側では、ゴルフシティのケース同様、複数のメーカーが審理前に和解。原告モリー・メイジズ・スポーツ(Morrie Mages Sports)にプロラインを提供することで合意していた。
ゴルフシティの訴訟はニューオーリンズの地裁へ差し戻されたものの、その後の記録は残っていない。
おそらくはウィルソンと和解したか、あるいは「もう目的はほとんど達した」と判断したゴルフシティが訴訟を取り下げたのだろう。それでもゴルフシティの裁判が重要とされる理由は明確だ。
本来、ゴルフメーカーの仕事はクラブを作ることであり、法廷で争うことではない。裁判に費やす時間も資金も、ビジネスの発展にはつながらない。さらに早い段階で和解した大手ゴルフブランドメーカー各社は、ゴルフシティやモリー・メイジズ・スポーツにプロラインを供給することを認めていた。
やがて地裁がゴルフシティに勝利を与えた瞬間、プロライン販売の“蛇口”は公式に解放されたのだ。その後2年後の控訴裁で「共謀は証明できない」と判断されても、一度解き放たれた流れを押し戻すことは誰にもできなかった。歴史の謎追記 ─ 小売の進化の物語
ウィルソンは控訴裁とシカゴでの判決に支えられ、自らの正当性を信じていた。だが現実はすでに変わっていた。
ライバルたちが次々にプロラインを小売市場に流す中、もはやウィルソンに抵抗の余地はなく、方向転換を余儀なくされたのだ。1980年代半ばには「プロ専売ポリシー」はほぼ消滅。その瞬間を逃さず、小売業者たちは一気に市場を切り拓いていった。
「ゴルフ・ヘッドクォーターズ(Golf Headquarters)」は、10の独立小売店が集まり「全米ゴルフバイヤーズ協会」を設立して誕生。「ネバダ・ボブズ(Nevada Bob’s)」は70年代に芽を出し、80年代半ばからフランチャイズ展開を開始。最盛期にはアメリカとカナダに77店舗を展開するまでに成長したが、2022年に幕を閉じた。
さらに「プロ・ゴルフ・ディスカウント(Pro Golf Discount)」は80年代に大きく拡大。特にアメリカ北西部で存在感を放ち、プロショップの価格を下回る大量販売モデルを確立。そのやり方は多くの追随者を生んだ。

1990年代半ばになると、「ゴルフスミス(Golfsmith)」はカタログ販売から小売の巨人へと進化し、最終的には全米20州に100店舗以上を展開するまでになった。
1997年には「ゴルフギャラクシー(Golf Galaxy)」がオープン。2004年には、マートルビーチの「マーチンズ・ゴルフ&テニス・スーパーストア(Martin’s Golf and Tennis Superstore)」が「PGAツアー・スーパーストア(PGA TOUR Superstore)」にリブランドされ、6年後にはホームデポ共同創業者アーサー・ブランク(Arthur Blank)が買収。現在は全米28州に77店舗を構え、2027年までに100店舗を超える計画を進めている。だが、これらすべての始まりは、「ノー」と言われるのを嫌ったひとりの男…バディ・オレンジからだった。
皮肉なことに、彼が開いた最初の「ゴルフシティ」は10年以上前に閉店。その理由は、大型ゴルフ専門店やオンライン販売の台頭による競争激化だった。
ゴルフシティの跡地に建っているのは、トップゴルフ(Topgolf)の“そっくりさん”。ケイジャンのテイストを取り入れた「ファイブ・オー・フォア・ゴルフ+エンターテインメント(Five O Fore Golf + Entertainment)」がその場所を受け継いでいる。

「歴史の謎」を最後まで読んでくれてありがとう
僕たちがやりたいのは、ゴルフの歴史を点と点でつなぎ、新しい視点を届けること。だから今日の“小さなタイムトラベル”を楽しんでもらえたなら幸いだ。
次にゴルフショップへ足を運ぶときは、ぜひオレンジ色のアイテムを身につけてみてほしい。そして、その先駆者─バディ・オレンジ(James “Buddy” Orange)を思い出して欲しい。
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