「キャメロンがハンドメイドのパターを作り始めた時、Sの刻印を少し左に、Cを少し右に傾けるよう提案した。私はそれを『ダンシング・キャメロン』と名付けた」(トオル・カマタリ)

 

多くの読者は「トオル・カマタリ」って一体誰だろう、と思っているに違いない。

鎌足 徹氏は、現代のゴルフ業界で最も影響力のあるデザイナーの1人である。しかしながら彼の名前は、他の有名デザイナーと違い、めったに話題にならない。

スコッティー・キャメロン、ボブ・ベティナルディ、キア・マー、ケン・ジアニーニ、バイロン・モーガン、ディック・デラクルーズ、テディ・マッケイブ、T.P.ミルズ、そして最近ではショーン・トゥーロン。見えない糸で繋がった著名な面々のリストだ。それでは鎌足氏がたどった6つの遍歴を紹介しよう。

鎌足氏は18才まで日本で暮らしていた。その頃の彼はスティーブン・スピルバーグ監督の映画に描かれているようなアメリカ文化に魅せられていた(お気に入りの映画は「未知との遭遇」と「E.T」だという)。厳格な両親の言いつけで必ず夜8時までには就寝していたが、週末によく過ごした祖父の家では、思う存分ハリウッド映画を楽しんでいたようだ。

鎌足氏はすでにその頃から渡米の夢を持っていた。彼の父親も息子の中にある起業家精神を見抜き、きっと海外で成功するだろうと思っていた。16才の時にアルバイトをしていたケンタッキーフライドチキンで父親と交わした会話が、彼の将来を決めるきっかけとなった。

「決まった給料で誰かに指図されるサラリーマンのような仕事ではなく、自分が自分のボスになる職業を見つけなさい。」と父は言った。父が経営していた配管工事会社を継ぐのが、おそらくは一番の近道だったが、彼も父もそれを望んではいなかった。

当時の何気ない親子の会話が、鎌足氏が進路を決める後押しをした。後に彼はスコッティ・キャメロンやボブ・ベティナルディが今の名声を得るのに大きく貢献することになる。

1989年から8年間、鎌足氏はハワイにある「Piece of Time」という日用品やアパレル製品、ゴルフ用品を扱うショップで働き、最終的にはヴァイス・プレジデントまで昇進した。

在職中に、米国・アジアのメーカーや流通業者、小売業者、広報担当者らと幅広いネットワークを築きあげた。学校の勉強は好きではなかったが、仕事環境の中で熱心にビジネスを学び、人間関係を築くエキスパートになった。ハイエンドの高級ゴルフ用品やアパレル製品を中心に、米国とアジアをつなぐ流通モデルを最初に作った人物となった。

鎌足氏のビジネスと人間関係を構築する才能が、閉鎖された日本の小売業界の扉を開き、最も影響力があり知識豊富な人材の1人として高い評価を獲得して、事実上独占的な立場となった。

アジアには未開拓のビジネスチャンスが多く残されている。鎌足氏がMyGolfSpyに語ったところによると、日本のマーケットは30年前でさえ、限定モデルやプロトタイプ、ツアースペックに人気があったという。たとえそれが大手メーカーによって作りあげられた誇大広告だったとしても、日本ではゴルフ用品はステイタスシンボルとして見なされているので、より高価なものほど良いとみなさる。

日本人にはゴルフ好きが多く、アメリカのゴルフ用品に大金を払う傾向がある。鎌足氏は、この2つの異なる世界をつなぐパイプ役なのだ。

「私が成功者だって?そうは思わない。ただ多くの人を成功に導いただけだ。」

 

鎌足氏とスコッティー・キャメロン

鎌足氏とキャメロン氏が最初に出会ったのは、鎌足氏がハワイのショップ「Peace of Time」で働いている時だった。当時レイ・クックで働いていたキャメロン氏は、ハネムーンでハワイを訪れていた。その頃すでに日本で人気があったケン・ジアニーニのパターに続き、アジアへの進出を切望していたキャメロン氏は、鎌足氏ならアジアのマーケットを切り開いてくれると直感した。 

カーステン・ソルハイム(ピンの創業者)が所有していたアンサーパターの特許は1984年に失効したが、マーケットにはまだまだ需要があった。特に海外では、アンサーのような典型的なモデルに人気があり、キャメロン氏は絶好のビジネスチャンスだと考えた。

日本国内での需要を十分に把握していた鎌足氏は、キャメロン氏にピンの代表的なパターを真似てみてはどうかと提案した。そうして生まれた多くのパターは、後にキャメロン氏のブランド(Cameron Golf International)からリリースされた1993年のクラシックシリーズの最初のモデルとなった。

鎌足氏が求める品質基準は高い。海外のマーケットで求められる高い品質と細部へのこだわりを十分に理解しているからだ。アジアの消費者はプレミアム価格を払うことをいとわない。そのかわり明確な高級感があって微妙なニュアンスにまで配慮が行き届いた商品を求める。

キャメロン氏はブランドのシグネチャーとなるロゴを作りたかったが、普通のデザインでは特別感がなく、マーケットにアピールできないと思った。そこで鎌足氏の提案を受けてダンシングキャメロンを採用した。そのロゴは、キャメロンブランドを象徴するデザインとなった。

その後もデザインに改良を重ね、鎌足氏はスコッティ・キャメロンのパターの日本における5年間の独占販売契約を締結した。キャメロン氏のデザインと鎌足氏の人脈で成功を見込んだ両者にとっては当然の成り行きだった。鎌足氏はマーケットの需要よりも少ない数での限定販売を開始した。数量限定の独占販売は価格を引き上げ、スコッティ・キャメロンパターの、最初のコレクター主導マーケットが確立された。

多くの高級パターのメーカーは、カリフォルニア州サンマルコスにあるK&M(キア・マーが操業)に仕上げ作業を委託している。キャメロン氏は、K&M でケン・ジアニーニのパターのミーリングを行っていたボブ・ベティナルディと出会った。

ベティナルディ氏は1992年から1995年までキャメロンのパターのミーリング(削り出し)をすることになったが、その後キャメロン氏がアクシネットと独占契約を締結したのを機に、1995年から1998年はタイトリストでミーリングをしていた。

この間に、ベルンハルト・ランガーが1993年のマスターズで優勝した際に使用したパターや、Cameron Golf Internationalが1993年に発表したクラッシックシリーズと1994年のスコッツマンシリーズ、タイトリストから1996年にリリースされた初のスコッティキャメロンモデルなどが誕生している。

5年間の契約締結の数年後、キャメロン氏はミズノからの委託製造(OEM)を開始した。OEMは鎌足氏にとってもアジアのバイヤーにとっても何の問題もなかった。75ドルから100ドルの価格帯のOEMパターは、キャメロンのパターがその4倍近い価格で売られていた日本のマーケットにほとんど影響を与えないと思われたからだ。

鎌足氏は、最初の契約の終了時には契約を更新すると思っていた。その意に反し、キャメロン氏がタイトリストと契約した事実を友人から聞かされた。キャメロン氏の決断は、ビジネスとして考えれば当然のことだが、ビジネスパートナーだけでなく友人でもあったキャメロン本人から直接その話を聞かされなかったことにショックを受けた。

しかし鎌足氏は決してキャメロンの成功をねたむことなく、その年のPGAショーで会った時には「私が君の立場なら、同じことをしたと思う。時にビジネスはそういうものだ。」とキャメロンに伝えたという。

鎌足氏は、「キャメロン帝国」を築き上げるのに多大な貢献をした1人だ。『ダンシング・キャメロン』から始まり、オリジナルのラインから日本では不吉な数字とされている4番を抜く提案や、キア・マーや影響力のある日本のバイヤーとのコネクションに至るまで、彼の貢献は大きかった。鎌足氏の貢献なしでは、キャメロン氏のキャリアは、全く違う軌道をたどっていたであろうことは想像に難くない。

 

ボブ・ベティナルディの時代

 キャメロン氏との決別後、鎌足氏はボブ・ベティナルディに連絡し、アジアで一時的に空いたマーケットに向けて、クラシックデザインのパター製作を続ける気があるかを確認した。当時ベティナルディ氏は、タイトリストを含む多くの大手メーカーからミーリング(削り出し)を委託され、多額の投資をしていた。

しかし鎌足氏によれば、ベティナルディ氏はすでにこの時点でいくつかのブランド(タッドモア、ティアドロップ、タイトリストなど)のCADデザインを蓄積しており、それらに微調整を加えてキア・マーに仕上げをしてもらい、アジアのマーケットに売り出すことができる状態だった。鎌足氏とベティナルディ氏は、決してこの方法で大量生産することはなく、その後はたまには連絡を取り合う程度だった。

鎌足氏は1997年5月にPiece of Timeを退社した。それまでに築き上げた幅広い人脈を基に、思い切って自身のビジネスを始める準備が整ったと思っていた。数ヶ月後、ベティナルディ氏から、日本の国内マーケットについて話がしたいと連絡があった。ベティナルディ氏はタイトリストと契約中だったため最初は不審に思ったが、タイトリストとの契約更新はされず、他の選択肢を探しているのではないかと考えた。キャメロン氏の時と同じように独占販売者として契約し、ベティナルディのパターを日本のショップに紹介することに同意した。

その年の12月、ブリジストンはベティナルディによってミーリングされた2,500本の限定モデルの製造に合意し、丸山茂樹プロの父親が日本国内におけるブランドの流通を請け負った。当時の丸山氏は日本のマイケル・ジョーダンのような存在だった。彼の影響力は非常に大きく、たった1人の日本人プロの存在がベティナルディのキャリアの方向を変えることになった。日本人ほど目の肥えた顧客はいない。丸山氏が認めたことで、ベティナルディは自分のパターは世界のどの国、どのコースでも売れるという自信を持った。

タイミング良く、その頃丸山氏は活動の拠点をアメリカに移そうとしていた。ベティナルディ氏は日本で最も影響力のあるゴルファーと手を組んだだけではなく、丸山氏がゴルファーにとって最も大きなステージであるアメリカに進出することで、世界中から注目を集めるチャンスを得たのである。

ベティナルディ氏と鎌足氏の関係は2004年6月に終了したが、事実上2003年には決裂していた。ベティナルディ氏が、日本での販売権に関しての契約不履行で鎌足氏を訴えたのだ。ベティナルディ氏によれば、鎌足氏は他の事業(ソナテックとトライオンZ)の運営を優先し、契約上義務付けられた仕事を遂行しなかったという。

鎌足氏は、ベティナルディ氏はベンホーガンとの契約を視野に入れ、まずは日本市場へ進出する必要があったと反訴した。日本を含むマーケットへのアクセスがあれば、ベンホーガンとの契約が有利になるからだ。鎌足氏は契約上の義務は果たしたという証拠として、契約期間の最後の数年は、年間1万本近くのパターを販売したと主張した。ベティナルディ氏によってイリノイ州で提訴された訴訟は不起訴となり、一方カリフォルニア州で鎌足氏が起こした反訴は停止となった。

 

ベティナルディ氏は、法的手続きはビジネスの過程で起こるものの一部に過ぎず、鎌足氏に対して個人的な恨みは全くないという。「もしトオルをレストランで見かけたら、普通に話しかけるだろう。きっと彼も同じだと思う。」とベティナルディ氏は加えた。

ベティナルディ氏だけでなく、多くの人々を成功に導いたのは、鎌足氏の人脈があってこそだと言っても過言ではない。

ベティナルディ氏は次のように振り返る。「トオルは日本市場への進出に尽力してくれた。丸山氏との出会いも彼のおかげだ。」

ベティナルディ氏が短期間のうちに日本で成功できたのは、丸山氏と手を組んだことが密接に関係している。それによってアジアでブランドの認知度を上げ、後にアメリカでビジネスを立ち上げる基礎を築いた。

 

少数生産のパター

 

ベティナルディ氏との契約終了後、鎌足氏は再び日本でパターブランドを立ち上げることには関心がなかった。そんな時、長年の友人ショーン・トゥーロンから電話があった。トゥーロン氏と鎌足氏は、後にキャロウェイゴルフの創設者となるディック・デラ・クルーズ氏を通じて知り合った。

当時56才だったトゥーロン氏は、テーラーメイドでの開発・マーケティング部門のヴァイスプレジデントの役職を退き、彼の2人の息子とトゥーロン・デザイン(Toulon Design)をスタートさせたばかりだった。テイラーメイドでの20年におよぶ在職期間中にゴルフ用品業界を知り尽くしていたため、アジアでのマーケティングに際し鎌足氏に連絡するのは自然の成り行きだった。キャメロン氏が鎌足氏の働くPiece of Timeにふらりと立ち寄ってから25年が経過していたが、彼は依然として日本の小売業界で絶大な影響力を持っていた。

「トオルは素晴らしい人脈を持っていた。主要な人物や小売業者をすべて知っていたし、アジアのマーケットで求められる微妙なニュアンスの違いなども知り尽くしていた。彼の性格と能力は非の打ちどころがない。」とトゥーロン氏は語った。

鎌足氏はトゥーロン氏の申し出を断るつもりだったという。

「トゥーロン氏が描いたCADデザインやロゴ、彼のビジネスコンセプトを全て見せられ、断れなくなった。パターブランドを日本で展開するのにはうんざりしていたが、それでも断るのは難しかった。トゥーロン氏はとても組織的で、デザイナー兼、優れたコンセプトを持ったビジネスマンだ。」

状況が普通と違っていたのは、トゥーロン氏が、他ブランドが使っている機械工場を使いたくないと思っていた点だ。さまざまな製造工程を探求し、プレミアム素材だけを使って製造したかったのだ。発売後6ヶ月でトゥーロン・デザインはキャロウェイゴルフに買収されたが、その半年の間に日本国内で3,000から4,000本のパターを販売したと鎌足氏は記憶している。

 

ソナテック(ロイヤルコレクション)

鎌足氏は称賛に対しては謙虚だが、失敗談に関してはオープンに語ってくれた。ソナテック(ロイヤルコレクション)の話である。鎌足氏にとって自身のゴルフメーカーを作ることは長年の夢だった。アメリカのブランドであるソナテックとロイヤルコレクションのU字型フェアウェイメタルとハイブリッドの技術ライセンス契約をした際には成功を強く確信していた。

2004年にロイヤル・トルーンで開催されたブリティッシュオープンで、トッド・ハミルトンがソナテックの MD ユーティリティー17(ロフト14度)を使い、アップダウンの激しい最終ホールで素晴らしいショット見せ、アーニー・エルスを破りツアー優勝を飾った。

小規模なブランドが突然世間の関心を集めることは珍しいことではないが、ソナテックは急激な需要の増加に対応する準備ができていなかった。まるで片手でモグラ叩きをしながら、もう一方の手で曲芸をしているかのような状況だった。市場予測の読みが外れ、商品サイクルを正しく管理することができなくなり、ソナテックの明るい未来は消えていった。

鎌足氏の最後の希望の光は、カナダ出身のビジネスマン、ピーター・ポックリントンだった。彼はブランドを再生させるのに必要な資金を持っていた。2007年3月に新会社ソナテック・インターナショナル(Sonartec International, LLC)が設立された。

しかし、その後1年も経たないうちに、鎌足氏はポックリントン氏に対して契約不履行で裁判を起こすことになる。ポックリントン氏が同意した額の資金を支払わなかったことに対し提訴したのだ。

鎌足氏の夢は最初に描いたとおりにはならなかったが、ツアープロと、クラシックな形のフェアウェイウッドを求める一般ゴルファーの、両方の要求に応えるクラブを設計できることを証明した。

現在、鎌足氏はゴルフクラブ用品のビジネスから離れ、日本での2UNDRの販売代理業者と、DIY Design Inc.(OUULゴルフバッグのメーカー)のセールスエージェントをしている。パターやメタルウッドの代わりに下着やゴルフバッグを扱うようになるとは思ってもみなかったのではないか。ゴルフ業界は奇妙な世界だというのは、鎌足氏だけでなく、多くの人の共通認識だ。驚き、失望、勝利そして悲劇であふれている。

鎌足氏は非常に才能のあるファシリテーターだ。だがその功績が名刺には書かれているわけではない。彼は仕組みを作り、起業家に目的達成のためのツールを提供した。この話で忘れてはいけないのは、キャメロン氏もベティナルディ氏も、鎌足氏なくして、彼らの日本での成功やビジネスの繁栄は成し遂げられなかったということだ。

成功は誰の助けも借りず1人で達成できるものではない。私の結論を言うと、個人では決して成し遂げられないことを助け、成功に導いた実績が鎌足氏の永遠の遺産なのだ。

 

なおスコッティ・キャメロン氏は、本記事に関してのコメントを拒否している。